子ども達のレジリエンス
CHILDREN’S RESILIENCE
RESILIENCE03
津波で亡くなった母との約束を果たすためにパリの凱旋門へ
Going to the Arc de Triomphe in Paris to fulfill a promise to my mother who died during the Tsunami.
板倉 凱士 | 宮城県石巻市
Gaishi Itakura (Ishinomaki, Miyagi)
「生きていてね」
大地震が起きた時、僕は小学校にいて、積み木の色付けをしていました。
経験したことの無い大きな揺れに、絵の具は飛び散り、たくさんの色でまみれた床を、今でもよく覚えています。
そのあと、僕は当時7歳の弟と一緒に、小学校で親の迎えを待っていました。
携帯電話を見ると、母から、「生きていてね」とメールが入っていました。
僕は、すぐに離れたところに行って、母に電話をかけました。
しかし、母は出ませんでした。
間もなく、父が自転車で僕たちを迎えに来てくれました。
弟と父と僕は、3人乗りで自宅に向かいました。
自宅に向かう途中、地震で崩れた建物や道路が目に飛び込んできて、いつもとは違う景色が広がっていました。
その時はまだ、あとから津波が来ることなど、想像もしていませんでした。
自宅に着くと、間もなく、「津波が来るぞ!」という知らせが入りました。
僕たちは、3人で近くの社宅に逃げ込みました。
社宅の2階にあがる直前、黒い津波が僕たちの目に飛び込んできました。
震災から1か月後、母は見つかりました。
来る日も来る日も、僕と父は近所の安置所を回り、母を探しました。
ある日、母方の祖父宅に車で向かう途中、自宅から少し離れた安置所に立ち寄りました。
僕と弟は外で待っていたのですが、しばらくして、父が泣き崩れて安置所から出てきました。その父の姿を見て、母が見つかったんだなと、分かりました。
母は、当時、山の上の病院で仕事をしていました。
母が見つかった場所は、病院と僕たちが通っていた小学校の間だったそうです。
「あの時、お母さんも僕たちを迎えに、小学校に向かってくれていたんだ、、、」
胸が熱くなり、涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。
「あの時、電話がつながっていれば、、、」
という想いも強くありましたが、それは、どうしようもないことです。
それからというもの、ただただ悲しくて、毎日、泣いてばかりでした。
でも、母は、向日葵のように明るい性格でしたし、いつも周囲の人を明るく照らすような人でした。
「あんまり泣くと、お母さんがあまりにもかわいそう」
いつまでもクヨクヨしていると、死んだ母も「申し訳ない」と感じてしまうのではないか、、、。
悲しいけど楽しく生きよう!と思考が変わってきました。
「この出来事は絶対に忘れないが、
あまりにも泣いてるとお母さんがかわいそうだから、楽しく生きよう!と言う」
そう家族で決めて、いつもニコニコ笑って、僕たちは元気だよ!と過ごすようになりました。
母との約束を果たすためにフランスへ
亡くなった母から、
「絶対にフランスに行って、必ず "凱旋門" を見てきなさい」
小さいころからそう教えられてきました。
僕の名前は、『凱士』と書きます。
凱旋門の「凱」からきているので、「ぜったいに行って来なさい」、
と言われていて。それがようやく叶います。
人生の分岐点
僕の人生の中で、大きな分岐点は2つあります。
ひとつは、震災で最愛の母を失ってしまったこと。
もうひとつは、Support Our Kidsのフランス研修に参加することが出来たこと。Support Our Kidsから合格通知を頂いた僕は、母のお墓に行き、「凱旋門を見てくるよ!」と報告しました。
そして、実際にフランスを訪れ、自分の名前の由来である凱旋門を見ることができました。あの時の高揚感は、今でもはっきりと覚えています。
当時、パリにある日本大使館で、現地職員の方々に自分達の震災体験をお伝えした後、僕たちは凱旋門に向かいました。大使館から凱旋門まで、真っすぐに伸びる一本道を歩いたのですが、僕はその一本道を、ずっと下を向いて歩き、顔をあげることができませんでした。
やっと凱旋門が見られる!という嬉しい気持ちの反面、少し怖い気持ちもあったからです。凱旋門が見えてくると、「凱士!凱士!」と、仲間が僕を呼ぶ声が大きくなって、僕はやっと顔をあげました。
旋門を見た瞬間は、すべての言葉を失ってしまい、ただただ圧倒されてしまいました。想像をはるかに上回る大きさの凱旋門は、まるで世界の中心のようでした。
そして、なぜ父が自分にこの名前をつけたのか。なぜ、母が、あれほど凱旋門を見なさい、と僕に言ったのか。その意味がわかった気がしました。
人生で一度出会うかどうかの宝箱を少しだけ開けて、夢のひとかけらを食べたような、そんな感覚でした。
石巻に戻るとすぐに、再び、母のお墓に行って報告をしました。
凱旋門は凄かったぞ!
世界の中心だったぞ!
これから頑張るぞ!
感謝の10年
震災から10年を迎えます。
母を失ってから、僕たち家族は泣いてばかりの日々を過ごしていました。
家族で母との想い出の場所に行っても、悲しい想いばかりが込み上げてきて、自然と涙が溢れてきました。
父も、弟も、それは同じでした。
しかし、僕は、凱旋門を見たことで、泣くことをやめました。
すると、自然と、父も弟も泣かなくなりました。
東日本大震災は、最愛の母を失くしてしまった最悪な出来事でしたが、一方で、その苦しみや悲しみを相殺できるくらいの出会いや経験を僕に与えてくれたことも事実です。
この10年を一言で表すならば、僕にとっては、『感謝の10年』です。
Support Our Kidsと僕を変えた9人の仲間
Support Our Kidsのフランス研修では、凱旋門を見たことと同じくらい、刺激になったことがあります。
それは、一緒にプログラムに参加した9人の仲間との出会いです。
フランスに向かうために、仙台駅から東京に向かう新幹線に乗ったとき、僕の席の近くには、同世代の人たちが数名座っていました。
「この人たちと一緒にフランスに行くんだな」
すぐにそれはわかったものの、当時の僕は内向的だったので、初対面ということに緊張してしまい、どのように話したらいいかわかりませんでした。僕が自分の席で誰とも話さないでいると、車内では、メンバーの間で自己紹介が始まりました。
場を盛り上げよう!良い旅にしよう!と、積極的にコミュニケーションを取ろうとしていることが伝わってきました。
東京に着き、半日をかけて研修を受けました。
そこでも、みんなは積極的に自分のこと、震災のこと、将来の夢についてなど、具体的に話をしていて、13才の僕は圧倒されてしまいました。
当時最年少だった僕も、そんな仲間の姿を見て、「自分も積極的にいこう」と意識を変えました。心を拓くと、すぐにみんなと仲良くなることができました。
フランスでの日々は、毎日が初対面の連続でした。
当然緊張はしたのですが、仲間たちがやっていたように、辞書を片手に片言の挨拶でコミュニケーションを取ってみたり、「言葉が通じなければスポーツで交流しよう!」と、現地の高校生をサッカーに誘ってみたり、今までの自分では想像できないくらい、積極的に行動することができました。
サッカーでは、僕が心を拓くことで、フランス人の学生たちも笑顔になって、最終的にはユニフォームの交換もすることができました。
“伝えようという気持ち” と “受け取ろうという気持ち” があれば、心を通わせることができる。
ということを実感した思い出です。
震災の後の石巻では、「頑張れ!」と言われたり、みんなで「頑張ろう!」と言い合ってはみても、自分も周りも、正直どう頑張って良いのかわからないという状況が続いていました。
そんな時に、どんな状況でも積極的に行動しようとする仲間たちに出会えたことは、僕にとって、殻を破るような本当に大きな刺激となったのです。
7年経った今でも、彼らとの交流は続いています。フランス滞在中に観戦したル・マン24時間レースに感動して、「将来はエンジニアになる!」と言った先輩が、今その夢を実現させていたり、再びフランスに渡って日本語講師の仕事をしている先輩など、今でも積極的な仲間たちから刺激をもらっています。
母のような人になる
そして、僕にも将来の目標が出来ました。
こうやって僕を成長させてくれたSupport Our Kidsのように、「子ども達を助ける仕事に就きたい」と思っています。
僕は、震災の後、たくさんの人たちに支えていただきました。
支援してくださっている方々にも、つらいことや苦しいこともあったと思いますが、皆さん、苦しい表情を見せずに、僕たちを支えていただきました。
僕は、そういう大人が心からカッコいいと思っています。
そういう人になって、子ども達の笑顔が溢れる社会を創りたいです。
思い起こせば、亡くなった僕の母の周りには、いつもたくさんの子どもたちがいました。いつも子どもたちの笑顔で溢れていました。
僕は年を重ねるごとに、母に近づいているような気がします。
僕の今の目標を言い換えると、「母のようなひとになる!」ということなのだと思います。
“Stay alive!”
When the big earthquake occurred, I was in my elementary school coloring blocks of wood.
I still remember how the floor was splattered and covered with paint of different colors due to the shaking, a thing I had never experienced before.
After the earthquake, I was waiting for my parents to pick me up at the school with my then 7-year-old brother.
I looked at my cell phone and saw a message from my mother: "Stay alive.”
I immediately went to a remote place and called my mother. But she didn't answer.
Soon, my father came to pick us up on his bicycle. My brother, father, and I rode together to our house.
On the way home, we saw buildings and roads that had collapsed due to the earthquake, and the scenery was different from usual.
At that time, I still had no idea that a tsunami would come afterward. Shortly after we arrived home, we heard the news alert: "Tsunami is coming!”
The three of us evacuated to a nearby company staff house. Just before we reached the second floor of the building, we saw the black tsunami coming right in front of us.
My mother was found a month after the disaster.
One month after the disaster, my mother was found.
Day after day, my father and I went around the neighborhood looking for my mother.
One day, as we were driving to my maternal grandfather's house, we stopped by a morgue which was located not far away from our house. My brother and I were waiting outside, but after a while, my father came out of the morgue in tears. Seeing him, I knew that my mother had been found.
My mother was working in a hospital on top of a mountain at that time. The place where her body was found was said to be in the area between the hospital and my elementary school.
"She was on her way to the elementary school to pick us up…”
My heart was filled with tears and I couldn't stop crying.
“If only the call pushed through at that time…”
I kept on justifying, but there was nothing I could do about it.
After, I was just so sad that I cried every day.
However, my mother had a cheerful personality like a sunflower, and she would always brighten up the people around her.
“If I cry too much, I think mother will not be happy.”
I wondered if my deceased mother would feel sorry for me if I kept on sobbing around.
I'm sad, but I started to think differently to live cheerfully.
"I will never forget this incident, but If I cry too much it would not be good for mother.”
So we decided together as a family to always smile, laugh, and say, "We are fine!”
I went to France to fulfill a promise to my mother.
My late mother told me ‘You must definitely go to France and see the Arc de Triomphe.’”
That's what I was taught from a young age.
My name is Gaishi.
The character “Gai” comes from the word "triumph" of Arc de Triomphe.
I've been told to go there.
There were two major turning points in my life.
One was the loss of my beloved mother in the earthquake.
When I received the acceptance letter from Support Our Kids, I went to my mother's grave and said, "I'm going to see the Arc de Triomphe!”
And I could finally actually visit France and see the Arc de Triomphe, from which my name comes from. I still remember the elation I felt at that time clearly.
After telling the local staff at the Japanese Embassy in Paris about our experience of the earthquake, we headed for the Arc de Triomphe. From the embassy to the Arc de Triomphe, we walked along a straight line, but I kept looking down and couldn't look up.
And then finally, I saw it the Arc de Triomphe! But at the same time, I was a little scared. When it came into view, I heard the voices of my friends calling me, "Gaishi! Gaishi!” It became louder, and finally I looked up.
The moment I saw the Arc de Triomphe, I lost all my words and was simply overwhelmed. The Arc de Triomphe was so much bigger than I had imagined, it was like the center of the world.
And I felt like I understood why my father had given me this name and why my mother had told me so much to look at the Arc de Triomphe.
It was as if I had opened a treasure chest and felt like I had tasted a piece of my dream.
As soon as I returned to Ishinomaki, I went to my mother's grave and told her about it.
The Arc de Triomphe was amazing!
It was the center of the world!
I'm going to work hard from now on!
Ten years of gratitude.
Next year will mark the 10th year anniversary of the disaster.
Since the loss of my mother, my family and I have spent many days in tears.
When we went to places where we used to go with my mother, I was filled with so much sadness that I naturally burst into tears.
It was the same for my father and younger brother.
However, when I saw the Arc de Triomphe, I stopped crying.
Then, naturally, both my father and brother stopped crying too.
The Great East Japan Earthquake was the worst thing that could have happened to me, as I lost my beloved mother, but on the other hand, it also gave me encounters and experiences that offset the pain and sorrow.
If I had to sum up the past 10 years in one line, it would be "10 years of gratitude" for me.
Support Our Kids and the 9 friends who changed me.
Seeing the Arc de Triomphe through Support Our Kids was equally inspiring as well.
It was when I met nine friends who participated in the program with me.
When I boarded the bullet train from Sendai Station, there were several people of my generation sitting near my seat.
“I’m going to France together with them.”
I knew right away that I was going to France with these people, but I was an introvert at that time, so I was nervous about meeting new people and didn't know how to talk to them.
While I was sitting on my seat in the Shinkansen, not talking to anyone, the self-introductions started.
Let's liven up the place! Let's make this a good trip! I could feel that they were actively trying to communicate with each other.
After arriving in Tokyo, we had a half-day training session.
Even there, everyone was actively talking about themselves, the disaster, and their dreams for the future, and I, as a 13-year-old, was overwhelmed.
I was the youngest at the time, but seeing my peers like this, I changed my mind and thought I should be proactive too. As soon as I opened my mind, I was able to make friends with everyone.
Every day was a series of first encounters in France.
Naturally, I was nervous at the beginning, but I did what my fellow students did, tried to communicate with others by greeting them with a one liner using a dictionary at hand, and invited local high school students to play soccer. I was able to positively act on things I previously thought I couldn’t do.
When I opened up my heart, the French students there also started to smile, and eventually we were able to exchange uniforms.
It was a memory that made me realize that if you have the desire to communicate and the desire to be open, you can communicate with your heart to each other.
In Ishinomaki after the earthquake, people said, "Hang in there!” and "Let's do our best!”, but to be honest, neither myself nor the people around me knew how to do our best.
At such a time, meeting friends who were willing to take action no matter what the situation was, was a great stimulus for me to break out of my shell.
Seven years later, I am still in touch with them.
During my stay in France, I was so impressed by the Le Mans 24-hour endurance race that I said to myself, "I will become an engineer in the future!” I also want to realize my other dream of working as a Japanese teacher in France. Until now, I am still inspired by the positive attitude of my colleagues.
Becoming a person like my mother
And now I have a goal for the future.
I want to have a job that helps children, just like Support Our Kids, which has helped me grow.
After the earthquake, I received a lot of support from many people.
I am sure that the people who supported us went through some hard times and hardships, but everyone supported us without showing any burdensome expressions.
I think such adults are really cool.
I want to be that kind of person and create a society full of smiling children.
As I recall, my late mother was always surrounded by many children. She was always surrounded by the smiles of children.
As I get older, I feel that I am getting closer to her.
My current goal is to be a person like my mother!
RESILIENCE
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復興を志す 01
自分が次の世代に、この美味しさを残す。ファーマーそして農チューバーという挑戦。
復興を志す 02
海外で得た「福島プライド」を、未来を担う子どもたちに伝えたい、育てたい。
復興を志す 03
教える立場になった今、一番大切にしていること。「心を理解しようとすること」
復興を志す 04
ドバイから、世界に通用する福島出身の日本人になりたい。
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大人になった私が、今度は、地元・栗原の子ども達を応援したい
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