子ども達のレジリエンス
CHILDREN’S RESILIENCE
RESILIENCE06
想像する力で誰かを幸せにするために。
好きなものは好き、それでいい。
To make someone else happy with the power of imagination.
Like what you like, and it will be fine.
熊谷 海音 | 宮城県仙台市
Kanon Kumagai (Sendai, Miyagi)
ひとりになっちゃった。
10年前まで、私は宮城県仙台市の荒浜という場所に住んでいました。近くには母方の祖父母も住んでいて大好きな人たちが住むこの街が、わたしは本当に大好きでした。
何もない、普通の日常。
しかし、私はそれが普通ではないことを知ることになります。2011年3月11日、下校途中、私は大きな揺れに襲われました。当時7歳で一人だったためとても怖く、道に震えながら蹲っていたことを覚えています。揺れが収まり、どうすればいいのか分からなかった私を助けてくれたのは、友人家族でした。少し離れた街まで車で移動し、その日は車で就寝することになりました。
数日後、自衛隊の体育館の避難所へ向かい、そこで私は叔父に会うことができました。しかし、近づくことができません。数日間、たった数日だったのに、私は大好きだった人にすら素直に近づけなくなっていました。数時間ほど経ち、私はやっと叔父と関われるようになって、そこからまた違う避難所へと移動しました。いつまで経っても家族に会えることはありませんでした。
友達と遊んでいる時、突然気持ちが悪くなり、吐いてしまうこともありました。病院へ連れて行ってもらい、先生からは、「家族に会えないことへの不安が1番大きい」と言われました。「いつになったら会えるのか」そんなことを考えている中、岩手の祖母が避難所まで来てくれました。
その約1週間後。
「お姉ちゃんに、会いにいくよ」
そう言われました。
喧嘩ばかりしていた姉でしたが、会えるのは嬉しくて、ウキウキしながら行ったそこは、暗く重い場所でした。
何とかその場から抜け出したい。
その思いで、後ずさった時、何かにぶつかります。後ろを振り向くとそこにいたのは、姉でした。真っ白い顔の、姉がそこには横たわっていました。
(死んでる。)
私はすぐに察せました。この顔は、寝ている顔じゃない、死んでるんだと。
周りの大人は焦って私の目を隠しましたが、見てしまったものはかき消せなくて、目から涙が溢れて、止まらなくて。大声で泣きました。
岩手に引っ越す前の日、私は手紙を書きました。死んでしまった姉に向けて。
岩手に行っても頑張るから。
今は1人だけどちゃんと、1人でも頑張る。
そう書きました。
岩手に越してから数ヶ月、母と祖母が見つかったと報告を受け、私たちは宮城に向かいました。少し期待したけれどそこに待っていたのは、ただの骨だけになった、母と祖母でした。
流れそうになる涙を堪えて、沢山話しかけました。目の前にいるみたいにして、明るく。
それが私にできる唯一の気持ちの保ち方でした。
それからまた数ヶ月後に、父が見つかりました。
もうわかっていたから、涙は出ませんでした。
傷が酷いらしく見せてもらえなかったけれど、チラッと見えた顔はどこから見ても私の優しい父でした。
「本当に1人になっちゃった」
誰もいないところで、私はそう呟きました。
わたしを救った想像力
岩手に越してからの毎日は、楽しいこともあれば辛いことも多い毎日でした。
一つはいじめ。物を捨てられていたり、暴言を吐かれたり。
ある日は、母が私にプレゼントしてくれたキーチェーンの人形がボロボロになって捨てられていたり、別の日は私と仲良くしてくれている子に私のことを(親がいない不出来な子)と言っているのも聞きました。
けど負けるわけにはいかなくて。
何とか毎日学校へ行って、笑って。
しかし、家にいるのはもっと辛く、私はどこにも居場所がないと感じていました。
私を迎えてくれた祖父母も、震災で突然我が子(私の父)や孫(姉)を亡くしたことで、自暴自棄になっていました。そのせいで、祖母には酷い言葉をかけられたこともありました。
そして落ち着くと言われる言葉は、「ごめんね」でした。
あの日、姉は学校にいて、母は迎えに行って、私がいないのを見て、2人で外に車で探しに行ったと学校の先生に聞いています。父もそうだったと。あの時、私が学校に戻っていればもしかしたら…そんなことを毎日考えて苦しみ、結果的にその時の私は自分のせいで家族が死んだと思うようになりました。
そんな辛い日々の中、私を支えたのは想像力でした。私は物語を書くのが好きで、昔はよく想像を膨らませていました。「小公女」のお話でも、彼女は辛い毎日でも想像の力で何とか乗り切り、結果的にしっかり幸せを掴んでいます。その当時の私もそうで、こんな辛い毎日でも神様が見てくれていていつか必ず報われる、そう思い信じていました。
また、歌も私の支えでした。母方の祖母は毎回私の歌を褒めてくれて、ラジカセで曲を流して私の歌を優しい顔で聞いてくれていました。私はそれが嬉しくて、いなくなってしまった時は、本当にあの時みたいに聞いてくれる優しい祖母はもうこの世にはいない、と悲しくてしょうがなかったのですか、いつも見ててくれてる、そう思うと私は毎日歌を歌っていました。そして歌には沢山の力があることを私は知りました。そこで出会った沢山の人々との繋がりが、また私を強くしてくれたと感じます。
中学2年生の春、私は祖母に嫌気がさして家出をしました。持っていたお金を使ってバスのチケットを買って。その当時の私は祖母の酷い言葉と謝罪の言葉を聞くのにうんざりしていました。その時は仙台の叔父さんの説得と、帰ってきて欲しいという祖母の言葉もあり1日で帰りましたが、帰ったらそれまでの日常が続き、「私は何のために帰ってきたんだろう」そんなことを思いながら、ここから早く消えてしまいたいと本気で思っていました。
私に生きる力をくれたSupport Our Kids
そんな時にポストに入っていたのが、Support Our Kidsの案内でした。夏に2週間海外に行けるというプロジェクト。私は小学生の時から海外に強い憧れを持っていたので、行ってみたい!もっと広い世界を見てみたいと思ったのが一つのきっかけでした。もう一つはすごく祖母から離れたいと思ってしまったのが1つです。
しかし、残り期限が数少なく、私は急いで書類手続きを進めました。学校に頼んで、家でお願いして、周りには「できっこない」そう言われていたけれど、私は「絶対に大丈夫!」そう思いながら書類を書いていました。無事、書類が通り、面接。私はとても緊張していましたが、無事そこも通り、カナダへ行けることが決定しました。
カナダへ行くメンバーはすごく優しく、色々と準備を進めながら出発日になりました。東京についてからプレゼンテーションの内容に対して言われたことは、内容が薄いということでした。私はその日の夜、ただひたすらに内容を考えていました。次の日はOBの方に英語の発音教えてもらいながらという感じで、初めからから迷惑をかけていたなぁ、と懐かしく思います。しかし、しっかりそこも乗り越えて、私達はカナダへ渡航しました。
カナダに行ってからは、新しいことばかりで目新しく、しかし英語がちゃんと話すことができず、苦しいと思うこともありました。しかし、それは周りに対してではなく自分に対しての怒りでした。それが今に少しつながっているなと思います。
キャンプに参加して沢山の人々と出会いました。沢山話して、遊んで、本当に楽しくてしょうがなくて。カナダでもプレゼンをして伝わるか不安だったけれど、英語しかわからなかった方々にも、話してくれてありがとうと言ってもらいました。それがとても嬉しかったです。
現地に住んでいる日本人の男の子が私に、
「今まで聞いてきたプレゼンの中で、震災の本当の現実を知ることができた。話してくれてありがとう」
そう言ってもらった時、私はこの話が、誰かの知識になることを知りました。ただ暗いだけの話だと思っていたのに、こんな力があるんだと。
あなたが生き残った意味は必ずあるから。
その後、ホームステイをし、そこで出会ったのは、とても優しい家族でした。ホストマザーは私の話を真剣に聞いてくれて、前を見たら、号泣していてびっくりしたのを覚えています。
彼女は私にこう言ってくれました。
「貴女が生き残った意味は必ずあるから。それを探して見つけて欲しい」
その時、私は涙が出ました。あの日、姉を失ったあの日から涙なんて忘れてしまったと思っていたのに。祖母の呪縛から少し解き放たれた気分になりました。
帰る時は本当に嫌で仕方なくて、今までにないくらい大号泣して。
帰ってから1年後、「もう一度、カナダに行きたい」と、ひとりで再びカナダを訪問しました。
前のメンバーとはまた違ったけど、やっぱり楽しくて、私は1人、また違うプレゼンをしました。もっとリアルな今の話を。そして家族に向けた歌を、英語字幕を友達に作ってもらって歌いました。終わってからは沢山の感謝の言葉と、「頑張ったね」を言ってもらいました。
あの時、もしカナダに行っていなかったら、私は自分の人生をもっと雑に扱っていたかもしれません。生きている意味がない。そんなことを思っていたから。しかし、その考えを彼らは変えてくれました。やりたいことが見つかって、生きる希望が見えました。
カナダという地に来させてくれた、Support Our Kidsに関わってくださった皆様には本当に感謝しかありません。ありがとうございました。
10年。それは長いようで短いものでした。ずっと楽しかった、そう言えるような人生ではなかったです。自分に何度も死にたいと言い聞かせ、腕を傷つけて、首吊り自殺を図ったこともありました。家族の分まで生きて、そんな言葉が、私を苦しめたこともあります。
震災前の私は家族がいること、当たり前が当たり前に存在していることが普通だと思っていました。しかし、私はその幸せが崩れる瞬間を目の当たりにしました。あの時、私がこれから得るものは何もない。そう思っていたけれど、Support Our Kids を通して、私は沢山のものを得ることができました。人々との繋がり、自分との向き合い方、そして沢山の価値観。私はカナダに行ってから約3年半が経ちますが、あの時の思い出が今の私を支えています。
産んでくれてありがとう。家族にしてくれてありがとう。
私が今亡くなった家族へ伝えることがあるとすれば、1人にしたのは許さないけれど、産んでくれてありがとう、家族にしてくれてありがとう、本当に幸せだったと伝えたいです。
本当に大好きだったから。
そして、私を今引き取ってくれた叔父夫婦には、家族がいない私に家族を教えてくれてありがとうございました。そして、私を留学させてくれてありがとう、と。たくさん私の悩みと向き合ってくれた家族には感謝しかありません。そして、これからたくさん恩返しができたらなと思います。
私の夢、想像する力で誰かを幸せにするために。
私は、今、イギリスで語学の勉強をしています。言語や文化、土地の違いで、悩む日々もありますが、私は「本当に、ここにこれてよかったな」と思います。沢山の人との出会い、そして新しい発見。どれもワクワクできるのは、Support Our Kids での体験がどれもとても楽しかったからだと思います。最初に嫌な思いをしていたら、私はきっと英語を勉強したいという気持ちにはならなかったと思います。あの日、現地で約束した英語を喋れるようになって、またカナダに戻ってくるという約束を果たすまでしっかり英語を勉強しようと思います。
2021年、新型コロナウイルス感染がまだ収まりきらない中、大変な生活を送ることを強いられています。
これも震災当時のような、当たり前が当たり前ではなくなった状況です。たくさんのことを諦めなければいけない状況にあったり、何か大切なものを失った人もいると思います。
私も長期の留学を諦めなければいけない状況に立ち、絶望しました。しかし、その間コツコツ努力したことで、私はコロナ禍の中でも、今、ここイギリスに来ることができました。それは自分のそれまでの頑張った成果であり、またたくさんの人のサポートのおかげだと思っています。私たちが今できる最低限のことを行いながら、この状況を乗り越えて行ければなと思います。
私は将来、物語を作る仕事をしたいと思っています。あの日、私を助けてくれた想像を、本やゲーム、舞台など形にして、沢山の人に届いたらいいなと思っています。そして楽しんでもらいたいです。
近年は沢山の多様性が認められてきました。
その中で私がずっと大切にしている言葉があります。
それは「好きなものは好き。それでいい」
です。
この言葉は、まだたくさんの多様性が認められていない時に見かけた言葉です。
当時、この言葉を知らなかった私は、自分が好きなものを好きというのがとても難しい状況にありました。しかし、この言葉を知った時、自分が好きなものがどれだけ誇らしいものなのかを実感することができ、私は自分を魅せられるようになりました。
この言葉を大切にし、未来へ向かって頑張っていきたいと思います。
I was left all alone.
10 years ago, I lived in a place called Arahama in Sendai city, Miyagi prefecture.
I really loved the town where my maternal grandparents and all the people I love lived.
Nothing out of the ordinary.
On March 11, 2011, I was on my way to school all alone when a huge earthquake occurred. I was 7 years old at the time, and I still could remember I was very scared crouching on the street, shaking. When the tremor stopped, I didn't know what to do but my friends and family came to my rescue. We drove to a town some distance away and slept in the car on that day.
A few days later, we headed to the evacuation center in the Self-Defense Force gymnasium, where I was able to see my uncle. However, I could not get close to him. For a few days, I could not even approach the people I love. And then hours passed, I was finally able to meet my uncle, and from there we moved on to another shelter. No matter how long it took, I was never able to see my family.
When I was playing with my friends, I suddenly felt sick and sometimes threw up. When I was taken to the hospital, the doctor told me that my anxiety of not being able to see my family was causing it. While I was thinking about when I would be able to see them, my grandmother from Iwate came to the shelter.
One week later.
About a week after, she told me, "We are going to see your sister.”
That's what she told me.
Even though I was always fighting with my sister, I was very excited to go there and see her, but it turned out to be a very solemn and difficult experience.
And I wanted to get out of the place somehow.
Thinking of it, I hit something as I stepped back. I turned around and there she was, my sister. She was lying there, her face completely white.
(She's dead.)
I immediately presumed. It was not a sleeping face, but death.
The adults around me hurriedly covered my eyes, but I couldn't erase what I had seen, and tears welled up in my eyes. I cried out loud.
The day before I moved to Iwate, I wrote a letter. It was for my sister who had died.
“I will do my best even if I go to Iwate.
I'm alone now, but I'll still do my best.”
That's what I wrote.
A few months after we moved to Iwate, we received a report that my mother and grandmother had been found, so we headed for Miyagi. I was expecting the best, but all that was waiting for us there were nothing but their ashes.
I tried to hold back my tears, and I talked to them a lot. I tried to be cheerful just like as if they were right in front of me. It was the only way I could keep my spirits up.
Another few months later, my father was found.
That time I didn't cry, because I already knew.
I wasn’t shown the injured part, but I caught a glimpse of his face, the face of my kind father.
“I was really left alone.”, I mumbled to myself in the middle of nowhere.
Imagination saved me.
Ever since I moved to Iwate, my days have been filled with both fun and pain.
One was bullying. I was thrown things and was verbally abused.
One day, the keychain doll that my mother had given me as a gift was torn to shreds and thrown away. And on a separate occasion, the child that became close to me was told that I am someone with no parents.
But I couldn't lose.
I managed to go to school every day and smile.
But staying at home was much harder, and I felt I had nowhere to belong.
My grandparents, who welcomed me, were also desperate because of the sudden loss of their own child (my father) and grandchild (my sister) in the earthquake. Because of this, my grandmother had some terrible things to say to me.
And when she calmed down, she would then say, "I'm sorry.”
My teacher told me that my sister was at school that day, and my mother went to pick her up, but when she saw that I was gone, the two of them drove outside to look for me. My father did the same. “If I had just gone back to school at that time, then maybe...”, I kept on thinking every day and suffered. And as a result, I came to believe that my family had died because of me.
What sustained me during those difficult days was my imagination. I like to write stories, and I used to let my imagination run wild. In the story of "The Little Princess," she managed to get through her difficult days with the power of her imagination, and in the end, she was able to find happiness. At the time, I was the same way, believing that God was watching over me and that one day I would be rewarded.
Singing is also my solace. My maternal grandmother always praised my singing and played songs on the radio cassette player and listened to me with a kind face. I was so happy to hear her praise my songs, so I was very sad when she left this world. But when I think that she’s always watching me, I sing every day. I learned that there is a lot of power in singing. The connections I made with many other people I met there also made me stronger.
In the spring of my eighth year in junior high school, I ran away from home because of my grandmother. I used all the money I had to buy a bus ticket. At that time, I was fed up with hearing my grandmother's horrible words and apologies. But my uncle in Sendai persuaded me to come back, and there were pleas from my grandmother also, so I returned within the day.
But when I got back, my daily life continued as usual, and I seriously wanted to get out of the place as soon as possible while thinking, “Why did I ever come back?”
Support Our Kids gave me the strength to live.
I then received an invitation from Support Our Kids in the mailbox. It was a project to go abroad for two weeks in the summer. I have a strong yearning to go abroad since I was in elementary school, so I really wanted to try it. One reason was that I wanted to see the wider world. And the other one was that I really wanted to get away from my grandmother.
However, with only a few days left, I hurriedly went through the paperwork. I asked the school to help me, and I asked help from home too. People around me said, "You can't do it," but I was writing the documents thinking, "It's absolutely okay!"
I was very nervous when I took the interview, but I passed it and was selected to go to Canada.
The members who were going to Canada were very kind to me. We were preparing for the departure day. After I arrived in Tokyo, I was told at the training session that my presentation lacked details.
That night, all that I could think of were the contents of my presentation.
The next day, I had to ask an alumnus to teach me how to pronounce English, and I still could remember how much trouble I was in from the beginning. However, Igot over that and went to Canada.
When we arrived, it was a new experience for me, but there were times when I felt like I was suffering because I could not speak English properly. However, I was not angry at the people around me, but at myself. I think it leads me to study abroad now.
I met many people during the camp. We talked a lot, played a lot, and really had a lot of fun. I was worried about whether I would be able to convey my message in Canada. But being told “Thank you” by people who only spoke English made me happy.
"Of all the presentations I've heard, this is the one that helped me understand the true reality of the disaster. Thank you for sharing it with us.”, a Japanese boy living in the area told me.
When he said it to me, I knew that the story would become part of someone's knowledge. I thought it was just a gloomy story, but I realized that it had such power.
There should be a reason why I survived.
I met a very kind family during my homestay there. I remember that my host mother listened to me very seriously, and when I looked at her, I was surprised to see that she was crying.
She then told me, "There’s a meaning why you survived. I want you to look for it.”
I was in tears at that moment. I thought I had forgotten about tears since that day I lost my sister. I felt a little freed from my grandmother's spell.
When it’s time to Japan, I really didn't want to leave, and I cried harder than ever.
One year after, I wanted to go back to Canada and visited there again by myself.It was different from the previous members, but it was still fun, and I gave a different presentation by myself, a more realistic story of the present. I also sang a song for my host family, with English subtitles made by my friend. They thanked me a lot for my efforts.
If I wasn’t able to go to Canada, I might have treated my life more like a chore. There is no point in living. That's what I was thinking at that time. However, they changed that thought for me. I found what I wanted to do, and I found hope to live.
I would like to thank everyone involved with Support Our Kids for allowing me to go to Canada. Thank you very much.
Ten years. It was a long time, but it was short at the same time. It was not a life that I could say I enjoyed all the time. I told myself many times that I wanted to die, hurt my arm, and even tried to hang myself. There were times when such words as "live as a remnant of your family" tormented me.
Before the disaster, I thought it was normal to have a family and to exist accordingly. However, I witnessed the moment when that happiness collapsed. At that time, I thought that I had nothing to gain from it, but instead I gained so much through Support Our Kids. I learned lots of values, how to connect with people, and how to deal with myself. It has been about three and a half years since I went to Canada, but the memories I have there remain my stronghold.
Thank you for giving birth to me. Thank you for making us a family.
If I could say something to my deceased family, I would say that I cannot forgive them for leaving me alone, but I appreciate that they gave me life, that they made me a part of their family and that they made me very happy.
I really love you all.
And to my uncle and his wife who took me in now, thank you for teaching me about family when I had none. And thank you for allowing me to study abroad. I am grateful to those families who helped me in dealing with my problems. I hope I will be able to repay them in the future.
My dream is to make someone else happy with the power of imagination.
I am currently studying the English language in England. Although there are days when I am troubled by the language, culture, and place, I am really glad that I came here. I am able to meet many people and make new discoveries. I think the reason I am so excited about all of this is because I have enjoyed every single experience at Support Our Kids. If I had been unhappy at first, I am sure I would not have wanted to study English. I will continue to study English until I can speak well and fulfill my promise to go back to Canada.
In 2021, we are forced to live a difficult life due to the novel coronavirus.
This is another situation where the norm is no longer the norm as it was at the time of the earthquake. There are people who have had to give up many things, and some have lost something important.
I was in a situation where I had to give up studying abroad for a long time, and I despaired. However, I was able to come here to the UK now because of my persistent efforts. I believe that this is the result of my hard work, and also thanks to the support of many people. I think we have to find a way to overcome this situation and do the best with what we have been given.
I would like to work as a storyteller in the future. I hope that the imagination that helped me during the disaster will reach many people in the form of books, games, plays, and so on. I want them to enjoy it.
In recent years, I have encountered a lot of adversities.
And in that context, there is a phrase that I have always cherished.
It is "Like what you like, and it will be fine.”
This is the word I saw when a lot of diversity was not yet recognized.
At that time, I didn't know this word, and it was very difficult for me to like what I liked.
However, when I found this word, I was able to feel proud of myself for recognizing the things that I like.
I would like to cherish these words and work hard towards the future.
RESILIENCE
復興を志す
復興を志す 01
自分が次の世代に、この美味しさを残す。ファーマーそして農チューバーという挑戦。
復興を志す 02
海外で得た「福島プライド」を、未来を担う子どもたちに伝えたい、育てたい。
復興を志す 03
教える立場になった今、一番大切にしていること。「心を理解しようとすること」
復興を志す 04
ドバイから、世界に通用する福島出身の日本人になりたい。
復興を志す 05
命が助かったからには、少しでも復興に役立つ大人になりたい
復興を志す 06
大人になった私が、今度は、地元・栗原の子ども達を応援したい
復興を志す 07
『恩送り』という、恩返しのカタチ。
復興を志す 08
震災後の「あたりまえ」は、復興の軌跡
復興を志す 09